第5回 逸見猶吉 日本のランボーといわれて

〈苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレ アラユル地点カラ標的ニサレタオレダ アノ凶暴ナ羽バタキ ソレガ最後ノ幻影デアッタロウカ 弾創ハ スデニ弾創トシテ生キテユクノカ〉

この詩は逸見猶吉(へんみゆうきち)の『ウルトラマリン 報告』の一部だ。詩人吉田一穂に激賞され、彼はこの『ウルトラマリン』によって、日本のランボーともいわれた。

逸見猶吉

彼(本名大野四郎)は1907(明治40)年に栃木県で生まれ、暁星から早稲田大学に進学。在学中の1914(昭和3)年に、神楽坂にバー「ユレカ」を開く。

「ユレカ」とはラテン語で「ここだ!」「ここをみつけた!」との意。クラッシク音楽をレコードで流し、都新聞主催の美人コンクールで1、2番のほかにも、美しい女性を揃えた洒落た雰囲気の酒場だった。たちまち詩人仲間の溜まり場になり、夜遅くなると店の日銭を握り彼は仲間たちと豪遊。借金まみれになり北海道に逃げ出す。

途中谷中村に立寄る。逸見の本籍地である。その地こそが足尾銅山鉱毒事件で遊水池となり廃村に追い込まれたところで、「亡国」を告発した田中正造によって、日本近代史でも長く記憶されている場所だ。村長であった祖父孫左右衛門と父東一は、あきらかに廃村に加担した。逸見の胸に苦悩を伴った「修羅の風」が、生涯にわたって吹きつづけたのはこのことによる。冒頭の詩の底にあるものは、己の血に流れる親族の「悪の負い目」にたいする反抗と無頼、それに内へ内へと向かう自己解体だ。1935(昭和10)年、草野心平、高橋新吉らと『歴程』を創刊、その誌上に一篇の詩を書いて彼の実質的な詩人生活は終わる。

その後突然満州に渡り、必需品配給会社に勤めながら、苛酷な生活環境の中で肺結核と栄養失調により、立ち枯れのように昭和21年帰国を前にして39歳で病死した。彼の渡満を知らずにかの地に渡った実兄和田日出吉満州新聞社長・妻で女優の木暮実千代の支援を拒み続けた。

それにしても満州に渡った後の彼の詩の変貌ぶりは何と言うべきか。日米開戦後の詩、

〈 雄々しき大和男の子らの血はたぎり 秋水一閃の竿頭より 死して悔いなき悔いなき血闘にとびたった/ああ大東和戦争たけなはなり 米英撃滅にして余事なく ゆくぞ神のつはものたち 烈々として猛鷲なり〉

この詩はあの『ウルトラマリン』の示した壮絶な内景とは絶対につながらない。比較して読む者に悪寒のような戦慄すら与える。晩年に「難民詩集」の編集を夢みていたといわれる彼の真意は、一体奈辺にあったのだろう。たとえそれが身を隠す擬態であったとしても……。彼の死後家族の日本への帰還にあたっては、新京(今の長春)からの移動の車両の中で、その極悪な環境から妻と次女が死亡、2人の男の子は逸見の知人の援護によって、やっと日本にたどり着いたといわれている。

神楽坂のバー「ユレカ」(神楽坂2丁目8番地)は、現在「ポルタ神楽坂」の一部になっている。開業資金は母親経由の本籍地の売却費用の一部と思われる。弟の大野五郎(後に画家)の尽力により赤字の穴埋めがなされ、昭和5年ごろに閉店されたらしい。ただし昭和初期、萩原朔太郎、草野心平ら近代詩人たちが集まった場所が、ここ神楽坂にあったことは記すに値する。

次回は作家矢田津世子をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。