第4回 長谷川時雨 (2)スカッとした「江戸っ子気質」

美人作家長谷川時雨については多くの記述がある。その一つ、吉川英治はこう述べた。

〈王朝の才媛、近世の紅蘭や細香に比しても時雨はおとる人ではなかった〉

同時代の作家城夏子も 時雨を稀有の美人だと讃えぬ人はいないと言いながら、

眼の生き生きと大きい、実にもう泣いても笑っても眉をひそめても、立っても座っても歩いても、美以外の何ものでもなかった。写真で見た十九歳の頃から六十歳の晩年に至まで一瞬一瞬が美しかった〉と書いている。

時雨は三上於菟吉と結婚してからは演劇から遠ざかり、時雨最大の業績、本邦随一の女性思想の芸術雑誌「女人芸術」の発行については前回で紹介した。

発刊披露の会には文壇内外の各界で活躍の大家から若手まで女流知名人80余名を招き最大に行われ、創刊号には評論、詩歌、創作と著名作家が名をつらね、時雨の意気込みがうかがわれた。しかしこの雑誌は時雨の病気と慢性的な資金難に悩まされ僅か4年の命だった。

翌8年には多くの女性ファンに後押しされて、時雨は敢然と立ち上がり、月1回のパンフ機関紙「輝ク」を発行した。だが、この機関紙は不幸だった。時あたかも国際連盟脱退・軍国主義蔓延の時期で、国策容認に傾かざるをえず、中国への将兵慰問の後、疲労困憊して昭和16年8月に永眠。61歳での死だった。

長谷川時雨

時雨は「輝ク」百号にあたる昭和16年9月号を記念号として刊行する予定だったが、くしくもその百号が「長谷川時雨先生追悼号」になった。追悼文の中で吉屋信子は時雨の業績は〈後進の女性への一つの道じるしの碑として残るであろう〉と結び、野上彌生子は時雨の独自性をあげて 〈鴎外さんや夏目先生が今後の文芸界に出現しないように、長谷川さんのような型の婦人をペンの仲間に見いだすのはむずかしい〉と述べている。そんな中で林芙美子だけは〈あんなに伸びをして/勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き〉という一遍の詩を寄せて、時雨の周辺にいた若い人たちを憤激させていた。が、もし時雨が知ったらもちまえの調子で「いいじゃないの」と、あっさり受け流したに違いないと記すのは、『評伝 長谷川時雨』の著者岩崎邦枝。

主著は「女人芸術」の埋め草として書いた『旧聞日本橋』で、『近代美人伝』と共に代表作である。

わが身のことはかまわず、他人や女性の地位向上だけを願って尽くした一生だった。終生、スカッとしていて、「江戸っ子気質」のかたまりともいうべき人であった。『近代美人伝』の須磨子の小文の最後も、〈乏しい国の乏しい芸術の園に紅蓮の炎がころがり去ったような印象をのこして――〉と記し、深い愛情に満ちていた。

夫三上於菟吉も3年後に、血栓症の悪化により53才でこの世を去った。本当に仲のよい鴛鴦夫婦だった。

さて、この明治、大正、昭和と華やかに活躍した時雨は、何故文壇の歴史の中で埋没してしまったのだろうか。

結論を急ぐならあの「輝ク」での活動が、戦時協力とみなされ禍となったことは否めない。彼女は「おなかの大きい人間主義」の人といわれただけに、惜しいといわざるをえない。実に残念なことだ。

次回は詩人逸見猶吉をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。