第3回 長谷川時雨(1) 女性の地位向上に尽くす

大正8(1919)年1月5日、長谷川時雨は川向こうの新佃島から赤城下町の三上於菟吉(作家・前号紹介)の住まいに所帯をもつために引っ越してきた。時雨40歳、於菟吉28歳だった。彼女が座につくかつかないうちに「松井須磨子が死にました」と夕刊が差し出された。

〈彼女は何故死んだ。芸に生きなかったとは言いたくない。/死ぬまで大芝居を打って、見事に女優としての第一人者の名をかちえていった〉

この文章は時雨の代表作『近代美人伝』に収録されている松井須磨子へのやや辛口の小文の一節である。牛込で時雨と須磨子がクロスした貴重な文章だ。

長谷川時雨 22、23歳のころ

鏑木清方の絵から抜け出たような純日本型美人といわた時雨(1879〜1941)は、明治12年日本橋通油町に父深造(日本初代弁護士)と母多喜の6人弟妹の長女として生まれた。19歳で父のすすめるままに知人の息子に嫁いだが、これがとびっきりの放蕩息子で勘当の末に釜石まで流される始末。

戯曲を独学で学び、明治38年には狂女の悲恋を主題にした『海潮音』が読売新聞の懸賞小説に当選し、選者坪内逍遙から絶賛された。続いて『花王丸』を書き、10年連れ添った夫との離婚も成立した。

歌舞伎座公演で『海潮音』を上演したときには、「この芝居の悲しい美しさが、ロマンチックでしかも義理のしがらみに苦しむ明治人の心をゆさぶって、可愛想で見ていられない」と観客が舞台に駆け上がって騒いだといわれる始末だった。『花王丸』出演の6代目菊五郎とは以降ふかく心を交わせ、世間に脚本家としてのその名が広まっていった。

於菟吉との再婚後、赤城下町から矢来町に移り、彼女は若い夫を世に出すために、辛抱強い支援をおこなう。

夫もその期待に応え、純文学作家家から大衆作家に転向して大成功をおさめることになる。折からの円本ブームで収入も吉川英治に次ぐ稼ぎを示す。そんな中、「ダイヤの指輪でも買ってあげようか」という夫の言葉に、時雨はすかさず、「その2万円、女のための雑誌をつくる資金に下さい」と頼んで、月刊誌「女人芸術」が誕生することになる。雑誌誕生の有名なエピソードだ。当時の銀行員の初任給が70円、だからこの金額は半端でない。

最初の女性思想の芸術雑誌「女人芸術」は、大正12年に岡田八千代と共に創刊したが震災で挫折。それを夫の資金援助によって再刊。生田花代、神近市子、平林たい子らの協力を得て「文芸春秋」女性版という趣で再出発したものだった。

昭和3年から7年にかけて発行されたその「女人芸術」48冊は作家志望の若手の女性が多く集まり、理論闘争の場にもなり次第に左傾化していった。雑誌は当初中町で企画され、後に市ヶ谷左内町の大きな借家で編集された。

時雨の病気と慢性的な資金難に悩まされた「女人芸術」は僅か4年の命だったが、彼女の女性全般へのいたわりを夫がよく支え、新旧女流作家の活躍の場となっていた。

時雨は常に女性の立場に立ち、女性の応援者として、主義主張を超えて同性のために力をそそいだ。そこから林芙美子の『放浪記』を世に出し、円地文子、矢田津世子、佐多稲子、尾崎翠らがデビューした。

次回も長谷川時雨をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。