第2回 三上於菟吉 吉川英治に次ぐ大衆作家

昔から善男善女が多い神楽坂周辺で、どの夫婦を坂の上に立たせたら絵になるかなぁといったことを考えていたら、こんな文章にぶつかった。

於菟吉(おときち)と二人で近くの神楽坂を散歩すると人目を引く。

「きれいな二人づれだね、夫婦だろうか」

「いや、年がちょっと‥‥、恋人同士だろう」

「美男美女ってとこだ。男の様子がいいね」

「女の方も美しい。姿全体に趣があるよ。何している人かな」とささやき声が聞こえる。

時雨の方は雑誌や新聞で顔を見知った人が、「あっ」と息をのむのがわかるときがあった。でも、隣を歩く於菟吉が何者かわからない」

(森下真理『わたしの長谷川時雨』)

その於菟吉こそ、昭和初期に大衆作家として大ブレークし、吉川英治に次ぐ大衆作家として名をあげた三上於菟吉(1891~1944)だった。白皙の美男子。速筆で人と話ながらも小説を書いた伝説の才人。ついには自分を「偽札製造機」と自嘲していた。一方の長谷川時雨はこれまた明治、大正、昭和世間の注目を一身に集めた才女で、美女の誉れ高く、二人は夫婦として赤城下町、矢来、中町と約10年間、神楽坂周辺で過ごした。

三上於菟吉

三上と時雨の結びつきはこうだ。三上が早稲田大学の学生時代に白銀町の下宿家「都築」に住んで、その下宿生活を下地にして書いた自費出版小説『春光の下に』を多くの作家に送り、面識のない時雨にも献呈したところ、彼女からお礼の手紙がきた。

それから三上のレター攻勢が始まった。やがてラブレターになり、あまりの激しさに根負けした時雨が陥落した。ばついちの時雨37歳、三上25歳の時であった。作家としての地位をすでに獲得していた彼女にしてみれば、このやさ男を育て、世に出してやろうという気持ちでいっぱいだったと容易に推測できる。

だが敵もさるもの、三上は売れ出すと芸者狂いがはじまり、一度外に出るといつ帰宅かは全く不明。時雨は時雨で執筆期限が来ている三上の原稿を自分で書き、字まで三上そっくりにして出版社に届ける内助の功を発揮。姉さん女房の責務をいやな顔ひとつせず勤めたという。

だから三上の帰宅時には玄関に土下座して、「オヤッちゃん、申し訳ありませんでした」と平身低頭した。「オヤッちゃん」とは、勿論恋女房時雨の本名「ヤス」からくる。三上の代表作はいわずと知れた『雪之丞変化』。上方歌舞伎の女形・雪之丞は江戸に出て、父親を奸計で死に追いやった憎き仇を見つけ出し、己の才覚で仇討ちを果たす話。

昭和10年林長二郎の主役で、戦後は38年に長谷川一夫のそれで映画化され、水もしたたる林と長谷川の熱演で世をおおいに湧かせたものだった。林長二郎とはもちろん、若き日の長谷川一夫であった。

次回は長谷川時雨をとりあげます。

てらだ・ひろし
1938年東京生まれ。非鉄金属メーカー、文芸事務所に勤務した。NPO法人粋なまちづくり倶楽部前理事長。『東京 このいとしき未完都市』、共著に『神楽坂まちの遺伝子』など。日本ペンクラブ会員。