音楽でメッセージ 第16回 尺八やフルートに託して坂の町から平和を祈る

矢来町から江戸川橋へ下り、神田川を渡って目白坂をのぼれば、高くそびえる鐘楼の下、夕焼けの空を映しつつ白銀の両翼を拡げて、今にも飛びたたんとする姿のカテドラル、関口教会・聖マリア大聖堂が現われる。

戦後六十年を迎えた二〇〇五年九月三十日、「巡礼―平和への祈りを込めて…」と題し、ブラジル生まれのフルーティスト、シェン・響盟・リベイロによる尺八のリサイタルがここで行われることになり、多数のファンが日の明るいうちから集まっていた。

優美な外観とは一変、聖堂の内部は粗く打ちだされたコンクリート造りの大空間。高い天窓からの光も照明の数も少なく、正面に立つ十六メートル余りの十字架と最後の晩餐を象る食卓の周辺のみが、ほのかに明るさをにじませていた。ホールに集まった人々は、祭壇への通路をはさむ長椅子に腰掛けて静かに開演を待つ。

突然、しじまを破る笛の響きが人々の背後に聞えれば、やがて漆黒の通路に尺八寸をしっかり口元に当て、黒のスーツに身を固めたシェン・リベイロの姿が静かに現れる。緊張のひげ面をライトにまぶしく照らされ静かに前へ進みつつ、渾身の息遣いで奏し続ける旋律は、はげしく、長く強く、しばらくは虚空をふるわせながら、やがて虚空のかなたに消えていった。

シェン・リベイロ

この広い聖堂をシェンがあえて選び、自然が育んだ竹管による神秘的な吹奏に、衆人はかつてない神秘的な境地に身と心を委ね、平和を希求する思いを魂の奥深くに感じ取ったに違いない。

メインパフォーマンスが終われば、祭壇下の広い空間が次のステージ。フルートやギター、パーカッションも合わせて楽しむ明るい南米音楽の世界に変わっていた。

ブラジル、サンパウロに生まれたシェン・リベイロは、同市音楽学院でフルートを学び、市のジュニアオーケストラ主席フルーティストとして活躍。一九八七年に来日、東京藝術大学に籍を置きながら、日本の伝統文化と日本人の心を深く理解できるよう、後の人間国宝、山口五郎氏のもとで尺八を学ぶ。一九九九年には、皇居の天皇・皇后両陛下の御前で演奏。またリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの閉会式、五輪権引継ぎ時に流れた曲(Canto de Xango)の尺八を担当。テレビ放映で彼の姿を見た人は少なくない。

東京在住時、シェンは神楽坂の矢来町に家を借り、一人息子を自転車に乗せては朝と夕、市谷小学校一年生の、偶然私の四男坊と同じクラスに通わせていた。

ある日、近くのラーメン店「龍朋」の主人、音楽とアートにも滅法強い松崎さんを通じ、シェンのCDジャケットのデザインを依頼された私は彼の住まいを訪ねる。たまたま玄関脇に空き缶を並べてバーベキューをしていた気さくな彼から、目の前の焼鳥をすすめられて食してみれば、素人が焼く味を越えた旨さに驚く。肉はスーパーで仕入れたものと聞くが、その焼き加減、味具合に彼が吹く楽器の音に通じるものがあると妙に感じ入った次第。

さて彼のCDジャケットのデザインをするにあたって私は、生真面目に難しく考えることなく、真摯で大胆、明るく演奏に取り組む彼の姿を直感的に表現してみたかった。先ず中央に大きく見開いた二つの目を描き、唇と両手で尺八やフルートの演奏を示唆。顔の周辺には、大きく指でちぎった明るい色面を散りばめて、ブラジルが生んだ名手、シェン・リベイロが吹奏する音楽の多彩な楽しさを示唆した。

多忙を続けるシェンは、その後ピアノに秀でた若い静香さんと再婚。二児を得てサンパウロに居を構えるも、毎年秋になると一家で日本へ戻っては東奔西走の活躍ぶり。

神楽坂では音楽之友社、アグネスホテル、矢来町のバルナバ教会などでリサイタル。一昨年は、この町恒例の「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり」の一人に選ばれて路上演奏し喝采を博す。この界隈での演奏会が終われば、グループやファンと共に決まって龍朋の店に呼ばれ労をねぎらわれることはいつものこと。残念ながら主人の松崎さんは昨年六月、病に倒れ帰らぬ人となってしまったが、店の昼と夕には必ず行列のできる賑わいぶりと聞いて納得している。

ゆー・じー・さとー

1935年神楽坂生まれ。東京学芸大学中退、桑沢デザイン研究所卒業。デザインファーム代表。世界四大ポスタービエンナーレ(ブルノ、ワルシャワ、ラハチ、モスクワ)のいずれでも金賞受賞。著書に「U・G・サトー」ggg Books 36、「富士山うたごよみ」俵万智と共著、「あめかな」、「しまうまのさんぽ」など。いずれも福音館書店。