第22回 生誕百年から没後百年までのこと

一九七一(昭和四六)年、この年島村抱月生誕百年を迎えたが、出身地の島根県浜田市付近では、女優須磨子と恋に落ち家庭を破壊した不道徳者として不評を極め、生誕記念行事など話題にもならなかった。筆者はせめて若い世代に近代演劇史上の抱月の業績を知らせたいと、記念講演会を想い描いていた。

その想いを石見稲門(早稲田)会会長の櫨山富介さんに話した。初対面であったが当地方の経済界の重鎮の櫨山さんは、一緒にやろう。在学中から同郷の先輩として尊敬していた、と快諾された。講師は抱月研究の第一人者、早大出身の俳優座の松本克平さん。講演は浜田高校で同年十月十九日に実現した。

この夜六五歳の克平さんはしみじみと述懐された。一九二九年の初舞台以来四十年「民衆演劇の確立と新劇職業化(芝居で飯が食える)」に努めてきたが、「抱月の藝術座五年」の足元にも及ばない。岩町君、これからだよ、我々の仕事は。業半ばで倒れた抱月の演劇への思いを受け継いで行こう。

筆者は先ず抱月の「リアルな人間の舞台形象化」を目指し、県下の高校演劇の質的向上を図った。島根出身の演劇人、劇団シェイクスピア主宰の出口典雄氏や国立劇場舞台技術部長の持田諒氏を講師に招き親しく指導を受けた。次いで、県下高校演劇が全国高校演劇組織に繋がる道を開き、島根県から中国代表として全国高校演劇大会での上演を実現し、その結果島根の高校演劇は飛躍的に発展した。

高校長退職後、創建された浜田市の石央文化ホール(千百座席)の館長を命じられた。地域住民による舞台芸術創造こそ抱月の故郷で発信すべき事業だと考え、市民の要望を尋ねた。と、圧倒的に地元を題材にしたミュージカルの希望だ。困った、筆者は音符も読めないし、音楽劇の演出などの経験も皆無だった。

だが、泣き言は云っておれない。市民のニーズに応えねばならぬ。一九九六(平成八)年、浜田出身の音楽家吉田敦、顕両氏の助勢を受けた第一回の創作ミュージカル『昔話お鶴島』は予期以上の成功であった。観客は故郷に伝わる悲恋物語に涙し、参加した市民は「創造の喜び」を満喫した。

以来二十年、隔年にスタッフ、キャストを公募し、浜田出身の演出家木島恭氏、作曲家安藤由布樹氏の支援を得て、市民参加劇を懸命に続けてきた。その成果の第一は、参加した市民から「舞台を作る人」が育ったことだ。今年三月、彼らはホールに替わって自ら市民参加の創作劇を制作・上演した。今一つは、浜田高校演劇部以来市民劇を共に創って来た美崎理恵さんが東京で演劇活動を始め、抱月に続く演劇人がまた一人登場したことだ。

更に拙著『評伝島村抱月』の機縁で、タウン誌『かぐらむら』の編集長・長岡弘志氏と郷土史研究家・谷口典子氏に山陰の片田舎に住む筆者を見付けて戴き『藝術座創立百年委員会』の五年間の顕彰運動を実践できたことだ。

今年、二〇一八年十一月抱月歿後百年を迎える。生誕百年時と一変、瞠目すべき時代が到来した。地元では、生誕地、菩提寺、町の産業文化祭の三か所で住民主催の記念行事が大々的に計画され、東京でも「抱月・須磨子歿後百年」の奉納行事がある。生誕百年から没後百年の四七年間、抱月はやっと故郷に迎えられ、東京神楽坂の藝術倶楽部に甦った。だが、泉下の克平さんは、まだまだ芝居では飯が食えないよ、と苦言を呈されるに違いない。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。