第21回 抱月と須磨子の死

大正七(一九一八)年春、最大の興行会社・松竹が藝術座との提携に乗り出してきた。同座の集客力の凄さとその客層の新しさを知ったからだ。藝術座はその客層―知識層を含む新中間層(給与所得者)と呼ばれる階層の文化的欲求にしっかり応えていた。

好機逸すべからず! 七月抱月は松竹との提携契約に調印した。内容は松竹が藝術座を毎月十五日間、一日百五十円で買上げ、出し物は両者が協議して決め、松竹所有の大劇場で上演することだ。

「一日百五十円買上げ」は日本新劇史上画期的な意味を持つ。この金額には興行を打つための経費(旅費宿泊費・小屋代・広告費・興行税等)は含まれていない。つまり、藝術座が「集団でつくり出す舞台創造の価値」を貨幣に換算したもので、一座の出演料と言える。結果として、今まで「一座のスター俳優のギャラ」の中に埋没していた上記の価値を顕在化し、社会的に認知させたのだ。この「一座の出演料」こそ新劇団が資本主義社会で上演活動を続けるための必須要件であった。抱月はその活路を拓いたのだ。

契約で興行収入が確保された彼は一座の頭脳集団としての脚本部を創設する。今日の各劇団にある文芸演出部の先駆けだ。部員は中村吉蔵以下新進気鋭の演劇芸術家の六名を委嘱した。この選任に抱月の深慮遠謀が伺える。早稲田系の五人に加えて、ただ一人小山内薫に師事する長田秀雄を入れたことだ。しかも長田を他の部員の三倍の待遇で招いた。長田を通して藝術座に批判的な小山内の意向を吸収する脚本部体制を目指したのだ。彼は小山内を演劇学者にしておくことは藝術座にとっても日本新劇界にとっても損失だと考え、小山内の卓越した才能を藝術座の舞台で発揮させたいと願っていた。

その機会は思いの外早くやってきた。十一月五日初日の松竹提携公演にダヌンツイオ作・小山内薫訳『緑の朝』を選び、小山内に演出と劇中歌の作詞を依頼した。劇中歌は引き受けたが、演出は長田を推し、初日前夜の舞台稽古に立ち会うことを約束した。

抱月と小山内という当代切っての演劇人が共に新劇育成への優れた理念と力量を持ちながら、ある意味では対立しながら別々の道を歩んできた。今抱月が小山内に手を差し伸べ同じ芝居を作る場をつくった。彼は日本新劇に新たな地平を拓かんとしていたのだ。

初日前夜の十一月四日夜、明治座で舞台稽古が始まったが抱月の姿がない。小山内が須磨子に訊くと、今はやりのスペイン風邪で寝込んでいるという。

その夜抱月の容態は急変し、介護の男は稽古中の須磨子に電話した。五日午前二時稽古がやっと終わり、須磨子は自動車で神楽坂の藝術倶楽部に着くや裏二階に駆け上がった。と、悲鳴が夜の静寂を切り裂く。「なぜ一人で死んだの!」、少女のように声をたてて慟哭した。四七歳という男盛りに、無念にも業半ばにして命を奪われた。

二か月後の一月五日午前二時、須磨子は坪内逍遙らへの遺書をしたため縊死した。遺書には抱月と同墓への埋葬を願うとあった。以後、「愛師追慕の情に殉じた須磨子・抱月悲恋物語」のみが世間に賑々しく喧伝され続けた。抱月と藝術座が、小山内も加えて築き上げようとした近代演劇史上の業績は放置されてきた。筆者の仕事は正にその業績の発掘にある。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。