第20回「水平興行地」を大切にする

「日本の新劇団の中で役者に飯の心配をさせないのは藝術座だけである」。同座の笹本甲午は誇らかに言う。「汽車に乗るとき弁当代のほかに小遣いをくれるのもこの一座だけである。何をおいても経済の基礎を確立したからだ」。

芝居で飯が食えた! 一九五三年新劇団の演出部にいた筆者はアルバイトでやっと食い繋いでいた。戦前から演劇青年は貧乏が当然の風潮だった。現在でも新劇の収入だけで生活できる若者が何人いるだろうか。筆者の抱月研究は「飯の心配をさせない藝術座」の不思議に憑りつかれたことから始まった。

座の経済的基礎は彼の二つの劇団経営策によって確立して行く。一つは彼の言う「二元の道」だ。興行収入を目的とした大衆劇と研究を目的とした藝術劇、目的を明確にした二形態の上演をする。大衆劇は女優須磨子の特性を活かし、情動の激しい女主人公を、劇中歌を入れメロドラマ化して上演する。小山内薫が「新劇の堕落」と酷評し続けようとも、「大衆なくして演劇なし」と確信する彼は黙々と大衆を楽しませる興行を続けた。その一方で藝術劇に真剣に取り組む。一九一六(大正五)年七月、神楽坂の藝術倶楽部で上演した第二回研究劇のトルストイ作抱月演出『闇の力』は新劇始まって以来の最高傑作と絶賛を博し、今もその高評は伝えられている。

いま一つの劇団経営策は、旅巡業システムだ。彼が何よりも重視したのは巡業での上演劇の質である。東京公演と同レベルを追求した。道具類は東京から持参したが、地方の小屋の照明・音響設備は貧弱であった。そのため、到着後直ちに地元の電気会社を呼び、持参の照明機器のフル稼働に耐える配線設備をした。笹本は苦労して運んだ「ライムライト」(ピンスポット)の強力な明るさに感嘆し、「藝術座だけが中央の舞台そのままを見せてくれる」との観客の言を残している。

舞台設営と同時に必ず地元新聞社との懇親会と文芸講演会を開いた。新聞記者には同座が従来の芝居ではなく日本の新しい演劇を目指す運動体であり、「須磨子一座」でなく「新劇団藝術座」の表記を求めた。文芸講演会の講師陣には相馬御風など新進気鋭の文学者が東京からやって来て、最新の文芸思潮を語ったので、会場は何時も新しい文化を希求する土地の青年たちで満席になった。

巡業地にも新機軸を打ち出した。人口一万以上の土地で巡業していたが、新劇を観劇出来ない5千人前後の町村へ乗り出していく。友人の演劇家伊原青々園にこれらの場所は皆「藝術座の水平興行地に入る」と伝えている。「水平興行地」の語は初めて見る。彼の他の文章にも当時の演劇関係書等でも未だ見ていない。だが伊原には通じたのだ。

それにしても「水平興行地」とは示唆に富んだ表現ではないか。水はどんな障害物にも阻止されず浸透して行く。藝術座の新劇運動も地勢や人口に阻まれず、小場所を水平興行地にして行くという意と推察し得る。

藝術座が幕を閉じるまでの五年間、上演場所は日本全国に及び国外を含めて一九五か所に上った。抱月は言う、巡業は座の経営上必要であると共に「土地の肥痩を論ぜずして新劇の種子を蒔き歩く」ことこそ座の使命であり、存在理由である。抱月は地方巡業を、「水平興行地」を大切にすることを、重要な演劇文化普及事業と位置づけていたのだ。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。