第19回 百年の時を超えて演劇交流

一九一五(大正四)年八月、神楽坂に新風を吹き込んだ「藝術倶楽部」の建築費は五千円の予算を超え七千円を上回った。銀行以外の金融業者(高利貸)からも借りて支払ったが、高利貸は毎日やって来て返済を迫った。

少年時に父の借金が長引き極貧に苦しんだ抱月は早期に完済することを目指した。藝術座は芝居を売る意外に収入はない。興行収益を上げるため、予ねて考えていた外地(台湾、朝鮮、満州)への旅巡業を企画した。外地には年を追って日本人が増え続け、日刊紙も発行されていた。

同年九月末神戸港を出港、台湾の基隆港(以下地名は藝術座興行記録の表記に従う)に上陸、十月三日台北の朝日座で上演、以下台湾各地を巡業し好評を博している。それにしても誰がこの興行を現地で組織・運営・支援したのだろう。

その答えはここ神楽坂で得られた。二〇一三(平成二五)年十月藝術座創立百年記念のイベント会場でのことである。掲示していた「台北での藝術座一行と現地関係者の記念写真」を指して、これは私の祖父ですと告げられた。新宿区立戸山シニア活動館館長滝口宏輔氏である。滝口氏の母方の祖父吉川精馬氏は当時台北で出版事業をされていた。氏は二〇一五年台北を訪ね、祖父の業績を調査され藝術座を支援した祖父と抱月との交流を偲ばれた。

台湾を打ち上げた一座は朝鮮に渡り十一月十二日に京城の寿座、十二月二日には大連(現中国東北地区)の歌舞伎座で上演した。一日、日露戦争最大の激戦地旅順を訪ねた。両軍合わせて六万人余の死傷者を出した戦跡を目の当たりにした抱月は、自責の念に苛まれたに違いない。留学中、在独邦人会で自作の「旅順陥落朗吟歌」を吟じ、偏狭で排他的な愛国心を得々と歌い上げていたからだ。

この凄惨な戦跡を前にして、ロシア領浦潮行きを決意したのだ。ロシアの人々に直接触れ親善・藝術交流を図りたいと願った。ハルビン上演後鉄路浦潮に入り、一九一五年十二月二十一日同市のプーシキン劇場で中村吉蔵作『剃刀』と『嘲笑』を上演、現地の新聞の劇評によると日本語を解しないロシア人にも充分ドラマは伝わっていた。

二〇一五年九月、島根県・ロシア国沿海州との友好親善二十周年記念事業の一環として、抱月の出身地島根県浜田市で演劇活動を続ける筆者らは、藝術座浦潮公演百年を祝し、プーシキン劇場でチェーホフ作・藝術座上演脚本『結婚の申し込み』を上演した。日本語で演じるので、字幕スーパーの設置を問い合わせた。チェーホフ作品ならその必要なしとの回答だったが、心配だった。

同劇場は昔のままだった。石造りの瀟洒な外装、舞台奥がやや高い傾斜舞台、踏み込んで窪んだ舞台袖、古い匂いの籠る楽屋等々。

在ウラジオ日本国総領事、沿海州行政府高官、藝術大学の教授・学生等が客席を埋めた。ドラマの進行と共に舞台と客席が強く感応し合い、総立ちの拍手の中で幕が下りた。チェーホフを愛するロシアの観客に誘導された賜物であった。

翌日の「浦潮における日露演劇交流円卓会議」でも、その夕べの総領事公邸での総領事主宰の「藝術座浦潮公演百周年記念レセプション」でも、主役は抱月その人であった。百年前、藝術座が果たした国際的意義の偉大さを改めて認識するウラジオ上演だった。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。