第18回 神楽坂に小劇場を創建

藝術座の『復活』が絶賛を博すと、既成劇団は一斉に須磨子を「日頃の傲慢さが舞台では客に媚びる卑しい芸人になり下がった」とやっかみ半分の酷評を浴びせた。彼女は「技芸に誇りを持って舞台に立つと、男たちは女のくせに生意気だという、なぜ女は芸術の上まで男から迫害されるのか、女にも魂がある」と反論する。このストレートな発言が「新しい女」像と重なり青年男女は益々藝術座へ詰めかけた。

大学を辞し、須磨子と生活を共にして藝術座に全精力を注いでいた抱月も某新聞に「抱月家の家庭悲劇を知らせる」と有もしないことを書き立てられた。彼は事実を示して抗議し、「家庭生活の敗残者たる私には自嘲もあれば自戒もある」が、それによって藝術座の事業が阻害されてはならないと主張する。目下最大の事業は小劇場の建設であった。稽古場借料と小屋代(劇場借料)が上演の最大のネックであることを熟知していたからだ。

現在筆者達は3月上演の住民参加劇の稽古中だが、公立文化施設が工事のため使用不能なので高校の同窓会館を借りている。使用料は3時間3000円。60回の稽古予定なので18万。この上に小屋代が要る。

抱月は大正博覧会への出演を縁に、閉会後解体建築材の払い下げを受け、1915(大正4)年8月、山の手一番の繁華街・神楽坂の一角(現東京都新宿区横寺町9、10番地)に自力で小劇場を創建し、「藝術倶楽部」と命名した。この「立地と命名」に彼の演劇・劇団経営の理念が凝縮している。低俗芝居の「浅草」でもなく、帝劇のあるツンと澄ました「丸の内」でもなく神楽坂であった。神楽坂は新中間層(サラリーマン等)や知識層(学生たち)の溢れる新興繁華街であり、彼等こそ藝術座の最大の観客層であった。

建物は、間口7間、奥行き四間の舞台と300席の客席を持ち、ピアノ常備の18畳の舞踏室や和洋五室があり、裏2階には抱月須磨子の居室と書斎も備えていた。装飾は西欧の最新デザインを採り入れ、窓・柱は緑色、壁は白色のモダンな建物で、その瀟洒な姿は御茶ノ水辺りからも望めたという。

藝術倶楽部は、藝術文化を愛好する人々の交流クラブ・集会所を目指した。現在の文化センター、文化プラザの先駆的発想である。更に他の文化団体に安価に貸出し、劇団経営者の一助にした。当時帝劇は1日150円だが、藝術倶楽部は電気代込みで1日僅か13円であった。安い貸席や小劇場のない時代、東京のど真ん中に資金の乏しい文化団体に活動の場を与えた意義は多大である。高い小屋代が文化・芸術活動の首を絞めているのは、今も昔も変わらない。

抱月は次の建設計画を公表している。倶楽部の前には文化人交流の喫茶バーを建て、倶楽部後の空き地には全劇団員の住めるアパートを建てる。集団で創造する演劇活動を継続するには、抱月が生育した石見の鉄山のように集団が同一場所に住み、その全生活を保障することだ。新劇職業化の第一歩である。確かに藝術倶楽部の創建は日本近代演劇史上にエポックを画する一大快挙であった。

だが、中村吉蔵は言う、「建築が完成した日、一番先に来たのは恐ろしい債鬼で、その債鬼が藝術座を台湾・満州まで追いやった」。建築費の返済を迫られ、直ぐさま旅巡業に出なければならなかった。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。