第17回 「カチューシャの唄」誕生前夜

一九一三(大正二)年九月藝術座第一回公演は初日以来連日満員の大盛況であった。出し物は何れもメーテルリンクの作品で秋田雨雀訳『内部』と抱月訳『モンナ・ヴァンナ』。イプセン流の写実劇ではなく、詩情と神秘に満ちた象徴劇であった。

文芸協会分裂騒ぎ以来新聞紙上を賑わせた女優須磨子を一目見んものと観劇した人もいたが、歌舞伎や新派に飽き足りない青年男女が新しい感動を求めて客席に座ったのだ。朝日新聞の名倉聞一記者が劇評を書く時「新しき芝居」が長すぎるので「新劇」と二字に詰めた。これが「新劇」と言う名称の使い初めである。「新劇」は藝術座から生まれた。

だが、劇団内部は分裂の危機を孕んでいた。演劇を通しての新芸術運動に意欲を燃やして参加した抱月門下の片上伸たちは、須磨子の野卑で横暴な振舞とそれを制御しない抱月に不信感を強めて行った。その最初の事件が宣伝用に配布する辻番付(俳優番付表)の書順であった。抱月は須磨子をトップに据えたが、片上たちは旧来の座頭スター主義だと反対し、演劇界革新のために「いろは」順を主張した。抱月は実力ある者がトップに就くのは当然だとして譲らなかった。片上たち数人が退座した。

座の混乱を建て直すため、抱月は演劇運動と劇団経営の理念と方向を明示した。劇団には二種の上演形態がある。研究団体としての上演「芸術劇」には座員の意見を採り入れる。だが、収益重視の興行団体としての上演「大衆劇」には須磨子が中心と成らざるを得ない。彼はこれを「二元の道」と言い、その実践の最初の大衆劇としてトルストイ作抱月脚色『復活』を取り上げ稽古が進んでいた。

舞台上で自分だけが目立つ演技に固執する須磨子とそれを黙認している演出家抱月に対し、男優たち特にその演技力が高く評価されていた沢田正二郎らの憤懣が鬱積していた。折しも須磨子が倍増の手当金を要求し劇団が承諾したことを知った座員たちの不満は一気に爆発した。劇団員十名余と秋田雨雀らが連袂退座した。後には須磨子の他三名だけとなった。一九一四(大正三)年三月初日を前にして藝術座は将に存亡の危機に瀕していた。

主力俳優の一斉退座! 抱月は憤然としてこの難局に立ち向かった。彼は言う、「僕のエネルギーの続く限り、藝術座の生命は続く」。俳優を補充し稽古を続行した。

抱月家の書生をしながら浅草千束小学校に勤務していた中山晋平に、抱月は『復活』の劇中の歌詞に「西洋の歌曲と日本の民謡を綯い交ぜた」ような曲を付けて欲しいと頼んだ。曲想が浮かばず、晋平は日夜呻吟していたが、初日の三日前にやっと劇中歌「カチューシャの唄」が出来上がった。

同月二六日帝国劇場で『復活』の幕が開いた。須磨子がその唄を歌った直後の幕間、廊下に異様な情景が現れた。壁に貼り出した歌詞を黒山になって書き写しているのだ。四月になると東京中で歌われ、五月にレコードが発売されるや二万余枚が飛ぶように売れた。ラジオ・テレビのない時代、僅か半年余りにして全国津々浦々で歌われ出したのだ。正に日本歌曲史上前代未聞の一大文化椿事だ。

この唄が一世を風靡した素因の一つは、異国情緒の匂う歌詞と和洋折衷の目新しい旋律が青年男女の琴線に触れ、清新な「愛の世界」を想望させたことにある。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。