第16回 同志須磨子との盟約

抱月は一九一二(大正元)年九月『早稲田文学』誌上に「心の影」と題して散文詩と二十一首の短歌を載せた。それは誰の目にも恋の歌であった。「或時は二十の心 或時は四十の心 われ狂ほしく」等々。恋情に悶々とする四十男の心情の吐露である。こんな個人的な恋歌を臆面もなく権威ある文芸誌に然も同誌の編集長が載せるのか。常軌を逸していた。分別ある大学教授や一家の主人のすることではない。彼は妻と年頃の娘がいる身である。

妻イチは心労に耐えられず、師逍遙を訪ね相談する。逍遙は早稲田大学教授のスキャンダルとして累を大学に及ぼすと考え、学長高田早苗と協議した。暫く抱月を「演劇と須磨子」から離した方がよかろうという事になり、高田に伴われて関西に旅立った。晩秋の奈良、京都に成すこともなく一カ月余滞在し、年末には一人湯河原温泉に傷心を癒した。

遮られれば愈々「演劇と須磨子」への思いは募るばかりであった。年が明けると意を決して帰京し、須磨子主演の『思い出』(『アルト・ハイデルベルク』)の稽古に顔を出した。

逍遙は文芸協会発足時から、新しい演劇運動を破壊するのは協会内の男女の風紀問題だと細心の注意を払ってきた。それが、こともあろうに協会の幹部指導者と主演女優に惹起したのだ。逍遙は彼が演劇創造に必要な団体の規律を乱していると、自制自粛を促した。

だが、相馬御風を初めとする二十名余の抱月の門下生たちは師抱月を激励するため帰京歓迎会を盛大に催し、師抱月を排除した後の協会の芸術的な堕落を激しく難じ、師抱月の演劇活動を切に望んだ。

五月に入ると俄に協会内部が騒然としてきた。研究所一期生が協会幹部の演劇指導を拒否する。同二期生は新劇団を組織したいという。須磨子が有楽座専属女優に売り込んでいるという。この情況の中で逍遙は抱月から長文の「陳情書」と協会幹事の「辞表」を受け取った。内容は主に須磨子との事で「精神的な愛の力で保護し、肉的関係はない」と述べていた。逍遙はこの「陳情書」を「弁疏文」(弁解文)と断じている。協会は有楽座の件で須磨子に退会を言い渡した。

早稲田の若い文士や彼の門下生たちは連日会合を開き協会の独断専行を詰り、抱月擁護の叫びを挙げた。マスコミは彼の恋愛問題と協会の内紛をスキャンダラスに煽り立てた。逍遙は事態を収拾するため協会を解散した。

一九一三(大正二)年七月、抱月は同郷の中村吉蔵と須磨子と澤田正二郎ら研究所二期生と新劇団を樹立し、名門モスコウ芸術座に因んで藝術座と命名した。彼は大正の新時代の芸術運動の中核に新劇団を置き、小劇場の建設・経営、芸術家の集う一大倶楽部の組織等、彼の抱負を新聞紙上に発表した。

実は、この時彼と須磨子は密かに「二、三年以内に、両人正式に結婚する事を約束す」という「誓紙」を取り交わしていた。この誓紙は独占欲の強い須磨子が抱月に書かせたものとされているが、彼女以上に彼が必要としていた。石見出身の貧書生をここまで育ててくれた大恩ある師逍遙に逆らい、妻と五人の子たちに言い知れぬ痛苦を与えるという、最悪の状況下で新演劇運動を起こそうとしていた。もし「女優須磨子」を失ったらこの事業は不可能だ。事業達成のための唯一無二の同志との盟約であったのだ。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。