第十四回 『文芸協会』前途多難な船出

文壇の期待を一身に集めて帰国した抱月は母校の教授の傍ら、早速、文学・演劇等の刷新振興を図る『文芸協会』を、西欧で学んだ「賛同者の会費等で運営する協会」組織で作り、同協会の機関誌『早稲田文学』の復刊に取り組んだ。

協会の骨格が出来上がった段階で、彼は伊原青々園、東儀鐡笛らと、師坪内逍遙に同協会の会長就任をお願いした。逍遙は言下に断った。理由は新脚本も勝れた俳優もなく無責任な計画だと嗜めた。抱月たちは、早稲田の創始者大隈重信を会長に担ぎ出し、早稲田出身の若い文士たちも巻き込んで強引に発足した。

俳優座の松本克平さんは言う。演劇運動はいつの時代も、発情した雄犬が鎖を引きちぎる性衝動に似ている。後先や周囲を無視した情動が先行する。然もその無謀さがないと実現しない。筆者も青年期にその衝動に身を任せた。

一九〇六年二月同協会の発会式が芝の紅葉館で三百名余の招待客を招き賑々しく開催された。出し物は逍遙の意向を汲んで。歌舞伎・能楽を基調とした新楽劇の逍遙作品を上演した。観劇した小山内薫は、現代に生きる人間のドラマがない、イプセンやメーテルリンクに通ずるものがない、「木遣歌の合唱」だと痛罵した。

抱月より十歳年少の小山内は東京帝国大学在学中から森鷗外のもとへ出入りし、西洋劇の翻訳等に優れた資質を発揮していた。

彼は小山内の批判に同感であった。我国の近代劇はイプセンから出発すべきだと確信していた。以後小山内は彼にとって気になる存在になって行く。

発会式は多額の欠損で終わり、演劇刷新どころか、負債を埋めるために特別寄付集めに奔走した。協会は前途多難であった。

これに反し『早稲田文学』の再刊は順調であった。出版社の文淵堂が月二百円の編集費を出し、販売は同社が全責任を持つという好条件でスタートした。当時月刊誌は一冊二十銭前後で、千冊売れて二百円である。

復刊第一号の〇六年新年号の巻頭には彼の「囚はれたる文芸」が掲載された。帰国の途上にナポリの一夜に詩聖ダンテが現れ出て、彼に西欧芸術思潮を語りかけるという斬新な趣向で、絢爛たる文辞で綴られていた。

以後留学で得た学識を駆使した芸術論を次々に発表し、評壇に新風を齎した。特に島崎藤村作『破壊』などの所謂問題的文芸が現れると「人間の真実」を描くとして評価し、自然主義的文学理論を構築して文壇をリードした。

〇五年十一月末、島村家に新しい同居人がやってきた。信州出身の弟雅一の妻を通して求めていた書生である。中山晋平という十八歳の青年であった。日野村新野(現中野市)生まれの晋平は、幼少期から音楽に憧れ、十三歳の時町に来たジンタ(サーカスや商品の宣伝に使う小楽隊)を聴いて音楽で身を立てようと固く決意した。

書生となった晋平は、抱月の勧めもあって東京音楽学校ピアノ科入学を目指して受験勉強を始めた。常時練習できるオルガンが必要だった。中古のオルガンを見付け、その代金の立替え払いを恐る恐る抱月に申し出た。彼は即座に快諾した。目下の日本音楽の課題は日本人特有の情感を西洋音楽で表現し得る音楽家の育成だと考えていたのだ。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。