第十五回 演劇創造と恋情のはざま

停滞していた文芸協会は、一九〇九(明治四二)年三月、坪内逍遙主導のもとに刷新、新たに演劇研究所を開設した。同所は単なる俳優養成機関ではなく「演劇の技芸・学理」を研究・修得し、新しい演劇人の育成を目的とした。第一回入所試験は応募者二十名余の内男子十二名、女子二名が合格した。男子の中には早稲田大学在学中の学生が数名いた。女子の一名は小林正子といい、後の女優松井須磨子である。

彼女は一八八六年長野県埴科郡清野村(現長野市松代町)に生誕、十六歳で上京し次姉の稼ぎ先に身を寄せ、好きな裁縫を習うため戸板裁縫学校へ通う。翌年木更津の旅館に嫁ぐが、一年足らずで離婚。性病をうつされ帰京後入院し治療する。彼女の自伝的著書『牡丹刷毛』によるとこの頃絶望のあまり自殺を考えたという。

転機は治癒後親戚の町田家での文芸書の熟読と同家の家庭教師の高等師範学校学生前澤清助との出会いであった。前澤は彼女と同郷の埴科郡坂木村(現坂城町)出身で彼女より六歳年長の誠実な青年であった。彼は童話作家で児童劇を手掛けていた巌谷小波に師事していた。ある日彼は正子をこの芝居に連れて行った。彼女は人間が肉体で演じる舞台に強烈な衝撃を受けた。これだ。自分が求めていたものはこの世界にある。

文芸協会の演劇研究生に合格し、逍遙指導のシェイクスピア作『ハムレット』で「オフイリヤ」役に抜擢されると、自分のセリフはもちろん、他の役のセリフも全部暗記するほどの凄まじい稽古にみなが圧倒されたという。

実は、この時抱月は師逍遙の演劇観に自分との差異を感じ始めていた。彼は新中間層・知識層が大量に出現した当時の日本では、シェイクスピア劇の「酔わせる基調の演劇」よりイプセン等の人間を「醒ます基調の演劇」の上演こそ必要だと考えていた。小山内薫の「自由劇場」も先ずイプセンの『ボルクマン』を上演していた。

協会は抱月や早稲田の青年文士の意向を汲んで次作をイプセン作抱月訳・演出の『人形の家』と決定した。抱月は津和野出身の中村吉蔵を演出助手に招いた。吉蔵は欧米留学中特にイプセン劇を深く研究していた。

初めての芝居づくりに取り組む抱月に須磨子の体当たりの演技が激しくぶつかる。女優は演出家の意図する役作りを目指して接近し、彼の表情・片言隻語も見落とさない。演出家は自分の描くドラマが女優の身体を通して具現されて行くことに言い知れぬ喜びを感じる。二人が始めて体感した創造の歓びの共有感は間もなく恋情に変容していった。

一九一一年十一月帝国劇場での公演は日本に初めて「西欧近代劇」が実現し「新しい女優」が誕生したと彼女は絶賛を博し、彼は演劇創造活動への第一歩を踏み出した。

だが、青年期に貧苦のため恋愛経験の乏しい彼は妻子ある四十男の恋情に困惑する。同月の『早稲田文学』に編集者として巻頭を飾るべき題言に、「四十歳」と題し自らの心情の表白とも受け取られ兼ねない一文を載せた。

「二十歳が所有してゐるすべてはLoveである。(略)四十歳にはもうLoveは無い。ただ其の追憶がある。羨望がある。悔恨がある。(略)四十歳のすべてには臆病な打算の心が息してゐる(略)LoveとAmbitionの残躯! 呪ふべき四十歳よ」

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。