第一回  住民参加創作ミュージカル「島村抱月」断想

それは神楽坂のサザンカンパニー主催の藝術座創立九九年講演を引き受けたのがきっかけだった。数年前からミュージカル「島村抱月」を再演しろと急き立てられていたが、石央文化ホール(島根県浜田市)の自主事業費は年々減額され、七百万円余りも経費が必要なミュージカルなどとても出来ない。少なくとも半額は助成金がなければ人口六万足らずの町では不可能だ。

平成二四年九月の神楽坂の講演会には中山弘子新宿区長さんを始めとして国立劇場、劇団、大学などの関係者や都民の皆さんで会場は満席だった。二五年には牛込箪笥区民ホールで藝術座創立百年記念のイベントも披露された。

その盛況ぶりに、東京在住の筆者の友人たちは驚嘆し、藝術座創立百年には浜田に帰る、どんなイベントがあるのかと訊ねた。いや資金がなく計画が立たないと答えると、友人は憤然として、東京でさえここまでやっている、抱月の故郷が何もしないのか!と激しく詰責された。確かに、抱月の功績を何においても第一に、彼が生育した故郷の人々に伝えることだ。神楽坂で火を付けられて帰郷した。

この東京の情況を浜田市金城自治区長(副市長格)岡本利道氏に伝えた。氏が「島村抱月」初演時に「中村吉蔵」役を演じられたこともあって、二人はいつか如何に再演するかを熱っぽく語り始めた。

先ず上演制作費だ。市当局も神楽坂の熱気に押されたのか、二百万円を拠出。加えて日本芸術文化振興基金から百万円、銀行と電力会社等の文化助成から六○万円、残り三四○万円は二千円のチケットを一七○○枚売る、但し抱月を一番知って欲しい高校生以下は無料にした。

次いで地域の文化力の結集だ。実行委員会を組織し、地元の合唱団、音楽教室、バレエ教室、演劇サークルの各指導者が、演出、音楽監督・指揮、ダンス振付、演奏を担当する。演奏楽器はピアノ、エレクトーン、パーカッション。舞台は傾斜舞台、大道具類はなし。

平成二六年五月から出演者を広く公募し、八月下旬公募者全員をキャスト・スタッフとして稽古を始める。キャスト三二名、キッズダンサー九名、ソプラノ・ソロ一名、詩吟団一八名、合唱二九名、アンサンブル一二名、スタッフ三〇名、合計一三一名の大所帯で、平成二七年二月一日の上演に向かって出発した。稽古は週二回夜七時から九時四〇分迄、一月半ばからは連夜。全稽古日数は六一日。

抱月の功績を故郷で継承することは、地域で質の高い演劇活動を持続的に発展させることだ。だが、筆者は一九二九年生まれの後期高齢者だ。当地の次の演出家を育てることが喫緊の個人的課題であった。二〇年来一緒に舞台を作ってきた資質豊かな四○代の男性に数年前から依頼し、今回引き受けてくれた。予算、業者との折衝など面倒な仕事は筆者がやり、舞台は全面的に彼が担当し、大所帯を一つに纏めて溌剌としたハーモニーが醸成されて、次代の演出家は見事に育った。

二月一日の昼夜二回上演に、一五〇○人余が詰めかけ好評裡に幕を下ろした。数日後、新聞の読者欄に出演した小学校六年の女子児童が寄稿、その結語に「ミュージカルに出て最後まで頑張る楽しさを知りました。仲良くしてくださったみなさん、ありがとう。ずっと忘れません」。これこそ住民参加劇の真髄ではないか。

いわまち・いさお

九州大学卒業後、新劇団に入団、病を得てやむなく帰郷。高校に勤務、部活で演劇部を指導。高校長で定年退職後、石央文化ホール館長・顧問を務める。その間郷土に取材した八本の住民参加創作ミュージカルを企画・演出・上演。現在、浜田市教育文化振興事業団副理事長、藝術座創立百年委員会会長。『評伝島村抱月』出版。