第六回 あっという間の八十年 ―小雀のお披露目・二―

昭和十二年〝小雀〟でお披露目してからは来る日も来る日もお出先さんを何軒も廻りました。あの頃は昼間からお座敷があり「末よし」さんに入れなければ一流になれないと言われ、婚礼の席では「鶴亀」等踊らされました。夜は職業野球の皆さんの大きな宴会等もあり、その席でのご返盃はお盃を野球のボールのように相手のかたに投げるので、日本髪に当たらないように首を引っ込めたり、受け取ったかたを間違えないようにお酌をしなくてはならないので広間をぐるぐる廻ったり大変でした。現在の出版クラブは当時「一平荘」というお料理屋さんで大きな宴会もありました。お庭には東家が幾つかありそこで召し上がるお客様のお相手もしました。「一平荘」へ遅れないように入るため早めに出なければならなかった理由は、当時は兎に角、通りはすごい人混みでスリもいたから人をよけながら簪や紙入れを気にして歩かなければならなかったのです。

昼間から夜までなのでさすがの私もお化粧を落とし着物を着がえるとバタンキューでした。でも箱枕の廻りには米糠が撒かれているのです。躾なのか意地悪なのか?

明日……なでつけに「加納さん(髪結)」に行くにはじっと動かずに寝るしかなかったのです。髪を結い直す時は坂田さん(床屋)で洗ってもらうので、その前の日だけはいくらか安心でしたが。おかげさまで行儀よく寝るコツも覚えましたが、昼夜とも修行修行の時期でした。

否応なしにいろんなことが身に着きましたが半玉時代の私の宝物があります。それは〝新橋のお鯉さん〟の踊りです。「桂太郎」が亡くなった後、目黒の五百羅漢寺で尼さんになったお鯉さんを、「末よし」さんにみえた威張りくさった軍人さんが「お鯉呼べ」と言って自動車を五百羅漢寺に差し向け、それに乗ってお鯉さん(安藤妙照尼)が来たのです。襖を開けて入って来た時(勿論尼さんの姿)に私は唖然としました。その後「踊れ」と言われて踊ったのが――浮世離れて奥山住まい恋も悋気も――あの……〝館山〟ですが、黒の羽織の袖口から顔を覗かせお数珠と床の間にあった花篭を持って踊ってくれたあの姿は今でも私の目に焼き付いています。こんな美しい人は今まで見たことがないと思いました。お化粧もしていないし尼さんの身支度だからきれいな衣装を付けている訳でもないのに何とも美しく色っぽいのです。格上の品のある色気というか、言葉が見つかりません。目に焼き付いた踊りが私の宝物です。その後自動車に一緒に乗って送っていったのが五百羅漢寺だったと知ったのはずっと後の事です。お鯉さんの努力もあって今は立派なお寺になりました。機会があったらお鯉観音を見に行ってください。宝物を見せてもらいその日はなかなか寝付かれず糠を気にしなくてすみました。

私は〝小雀〟という名が気に入っていたので二年後には一本になりましたが、〝小雀〟のままでいることにしました。一本になってからもいろいろな想い出がありますが、そのうち戦争が激しくなり疎開しなかったので二度焼け出されました。全て焼けてしまいましたが八王子の知り合いに預けた着物数枚だけが残り、上等な結城はモンペにし、大島と上布は下の娘が家のお宝だと言って面白がって(大切に)しています。

思えば牛込に来て八十年以上過ぎました。苦労もしましたが今ではあっという間に感じます。また機会がありましたら戦中戦後のお話をいたしましょう。

ひえだ きみこ

大正12年生まれ、芸妓時代に習った東八拳を店を閉店後教え始める。平成23年神楽坂の東八拳として新宿区地域文化財に認定される。