第二回 義太夫との出会い

おかげさまで前号で宣伝させて頂きました主催の「第十四回はなやぐらの会」は、満員御礼にて無事終了いたしました。たくさんのおはこび感謝申し上げます。

今回は、世界史の教師と専業主婦の間に生まれ、数学科に進んだ私が、どうして女流義太夫の道に進むことになったのか、をお話ししようと思います。

両親とも伝統芸能の世界とは関係のない生まれ育ちで、若い頃に歌舞伎や文楽にそれなりに行ったことはあるものの、格別熱中することもないままだったようです。

母が娘時分に習っていたというお筝が和室に立てかけてはありましたが、私も三歳下の妹も稽古することもなく、二人ともピアノを習っていたような具合でした。小学校四年生くらいでピアノをやめた後も楽器はずっと好きで、あれこれかじったりはしましたが、邦楽とはまったく縁がなく大学生となりました。

さて私は理系で数学が好きだったのですが、一浪して入った数学科の授業には、かなり戸惑いました。

数学をやりたいと思ったのは、テレビで「球面の裏返し」の映像を見たからでした。丸い球のどこにも切れ目を入れることなく裏返すその美しい映像にすっかり魅入られたのですが、授業は連続の定理などの基本的なことを延々とやり続けます。

今となれば、理屈抜きで基本を叩き込むというその大切さがとてもよく解るのですが、当時は何だかつまらなく思えてすっかり授業から遠ざかってしまい、読書や美術館に映画館、劇場などにひたすら逃避する日々でした。

演劇はアングラ芝居から歌舞伎まで色々、演劇ではありませんが文楽もよく通いました。

大学では「歌舞伎研究会」という名ばかりで研究はしないお楽しみサークルに入り、歌舞伎にどっぷりはまりはじめた時期でもありました。

ちなみにどっぷりのきっかけは、今は亡き十二代目市川團十郎さん(当時は十代目海老蔵)に一目惚れしてしまったことですが、紙面の都合で本題に戻ります。

そうこうするうち、歌舞伎座の三階ロビーに置いてあった地味な「義太夫教室」のチラシを手にとったことが、私の将来を決めることになります。チラシには「義太夫をお稽古すると、もっと歌舞伎が楽しめるようになる」というような殺し文句が書いてありました。

実は東京の生まれ育ちの私は、もともと大阪の芸能である義太夫がちょっと苦手でした。すべてがオーバーだし情熱的すぎるし、しかもほぼ大阪弁…。

そして江戸浄瑠璃の清元の粋ですっきりした三味線の稽古がしたいなあ、と漠然と思っていたのですがどこに習いに行ったらよいかも分からず、そのままになっていました。

「歌舞伎がよく分かるようになるなら、とりあえず(!)義太夫教室でも行っておこうかなあ」となんとなく考え始めた頃、父にその話をしたら、「義太夫いいぞー。ベンベン~っ」と勧められ、「そ、そうかな…?」という感じであまり深く考えずに義太夫協会の主催するその教室に通うことになりました。

そして教室で、上野広小路・本牧亭での女流義太夫公演の招待券をもらい、明治・大正時代を境にすでに途絶えていたと思っていた女流義太夫の世界がまだ存在していたことを知り、当時大阪からしばしば客演なさっていた鶴澤寛八師匠の芸と出会うことになるのです。(次号に続く)

つるざわ・かんや

1984年、鶴澤寛八に入門。1993年、豊澤雛代の預かり弟子。2007年、鶴澤清介の預かり弟子。2009年、重要無形文化財総合指定保持者認定。伝統芸能ポーラ賞奨励賞ほか受賞多数。京都造形芸術大学非常勤講師。
詳しくは http://tsuruzawakanya.com/