2018年6月 98号

戦後と肉体の復権

長岡私もどちらかというと肉体という言葉を使って論じた方がいいと思いますね。

鈴木竜(撮影:伊藤孝)

伊藤肉体という言葉が使われたこととして思い出されるのは、敗戦後間もなくアプレゲールの姿を描いた田村泰次郎の「肉体の門』という小説がありましたね。戦争の時代は精神主義が強調されて肉体はゴミのように粗末に扱われていました。日本の軍隊は兵站を軽んじたため、兵士の七、八割は餓死か病死で、戦闘で死んだ者よりはるかに多かった。中国でもインパールでガダルカナルでもどこでも、十分な食糧・弾薬を提供されず大和魂だけを強要されて多くの兵士が命を落としたのを思うと、肉体の軽視にはなはだしいものがありました。そこに戦争が終わり『肉体の門』が登場して、いわば肉体という言葉が堂々と使われるようになった。そして時代が下がって六〇年代終わりの頃に、演劇やダンスの世界に唐十郎の『特権的肉体論』や土方巽の「肉体の叛乱」という演劇論やダンス論が登場し、アングラ演劇の役者や舞踏ダンサーが百花繚乱の活躍を始め、エポックメイキングな時代を創り出したように思います。

笠井瑞丈(撮影:伊藤孝)

長岡私も一〇代の頃に唐十郎さんが現われて、紅テントを何度も観ました。舞台も演出も脚本もいいけれど、演じている役者の個性的な肉体が大事なんだという唐さんの「特権的肉体論」という演劇論に衝撃を受けました。この本読んでみると詩人の中原中也のことを論じたことが多かったような印象がありますが。ところで最近どうしても違和感を抱いてしまうことに、電車に乗ってスマホをいじっている人が気になります。一〇人中八、九人が下向いてスマホを見ている。あの小さな情報端末を覗き込んでいろんな情報を取り出しているのでしょうが、私には逆にあの端末から個人情報が吸い上げられて、人はどんどん標準化、均質化させられている。まわりにいる隣人の気配もどんどん希薄になってきている気がしてなりません。

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